Maydayの歴史(2) 八幡製鉄最初のメーデー

八幡製鉄所初代本事務所 1899建設 1910撮影の絵はがき。現在八幡構内に保存されている。この本事務所は1922年に八幡枝光に本事務所ができて移転した。
八幡製鉄所初代本事務所 1899建設 1910撮影の絵はがき。現在八幡構内に保存されている。この本事務所は1922年に八幡枝光に本事務所ができて移転した。

➡続き

2015.4.28

 歴史探究

八幡のメーデー  (2)

 

  北九州八幡の第1回メーデーは、大正11年(1922年)5月1日月曜日の夜、尾倉のハイカラ館で催されましたことは、先に書きました。

 メーデー開催に至る、八幡製鉄所の労働運動史により書きます。

 最初のメーデーの2年前の1920年大正9年2月に八幡製鉄所はストライキが起こっています。ストライキが起こった背景には、シベリア出兵による米価の高騰で、物価が上がり、賃金が上がらないので文字どおりメシが喰えないのです。この大ストライキの2年ほど前から、処遇改善の嘆願書提出、下請けの朝鮮人のストライキ、青年労働者達の仕事放棄のサボタージュが起きています。日本各所での米騒動が労働組合運動に影響を与えています。

 

米騒動と普通選挙運動 1918年

 1918年大正7年富山県魚津港で米の価格暴騰に困窮した主婦達が井戸端会議で話し合い、米問屋に押しかけ暴動化します。この米騒動が日本各地に瞬く間に波及します。北九州市、筑豊炭鉱地帯でも米の売り惜しみする米屋倉庫に押しかけ米騒動が起こっています。

 それと並行して、普通選挙法制定運動も広がっていました。大正デモクラシーは農業から工業へと日本の産業構造が変化する時代にロシア革命の影響を受け、政治、文化、労働運動と急速に世の中が変化していくのです。

  

2回のストライキ  1920年

 官営製鉄所のストライキは、大正9年1920年2月4日労友会の浅原健三、西田健太郎がリーダーとなり労友会が1次ストライキを実行します。労友会会員4500人。スト参加は正確な人員はわかりません。東京日日新聞では3万人、読売新聞では2万人と報道してます。職工は18000〜20000人います。職工のほかに臨時雇用の職夫もたくさんいます。製鉄所はストライキに対して、ロックアウト(会社休業)して対抗します。ストライキの先導者は、逮捕され騒擾罪として投獄されます。敗北して収束します。

    しかし、労友会は、加藤勘十らをリーダーに招いて第2波のストを1920.2.24から実行します。

 八幡には労友会結成の前に「労愛会」が結成されています。最初の八幡労愛会支部長は製鉄所を誘致した村長・芳賀種義さんです。芳賀さんは労働運動が盛んになると支部長を辞退します。労愛会の要求も労友会と同じですから、第2波のストライキには、労愛会が参加します。

 2回のストライキは、第1回のスト同様に、一斉に仕事を止めて、集団でデモ行進して本事務所に集結し、15000人が門を出て豊山神社の下の公園で集会をします。臨時工の職夫など多数参加します。

 2回のストは、集団で移動する途中で窓ガラスへ興奮して投石はありましたが、生産設備や機械類の打ちこわしはなかったと、製鉄所発行の労働運動誌には書かれています。新聞報道は、ストの暴動化を投石など暴動化したと記事でストと書かず「騒擾」と描いています。

 製鉄所は、ストが始まると労働者の団結を分断することをします。第1回ストライが始まつた直後に、ストライキをしない穏健派の「同志会」の結成式をします。

 第2波のストライキ2月24日には、製鉄所は、職制達に「組・伍長研究会」を発足させます。

 製鉄所は第1波と同様に第2波ストにロックアウトで対抗します。労友会と労愛会との交渉を一切拒否し、同志会、組伍長研究会とだけ交渉をします。

 その最中に、2月26日国会解散があり予算成立の目途が立たなくなります。

 第2波ストには。職夫供給人の国粋会が出てきて、職夫と職工を対立させ、スト指導者をテロで脅し暴力で委縮させ、国粋会の調停でストは終息し、そして3月2日から操業再開となります。

  

12時間2交代廃止 1920.4.1

 1920年大正9年の2回ストライキの後、製鉄所は12時間2交代労働から拘束9時間実労働8時間の三交替勤務に変わります。

 ストライキ対策に貢献した社員に報奨金をだし、警察関係に感謝状をだします。スト扇動者は解雇します。それと同時に争議再発防止の労務管理態勢を整えます。製鉄所懇談会、職工総代表会議と設置し、社内報「くろがね」を充実させます。

 製鉄所は設備増強して鉄の生産を大増産の設備増強していました。大量の用水の確保のため河内貯水池は建設中でした。

 

田中熊吉さん宿老になる 1920年 

 官営製鉄所のストライキは、大正9年1920年2月4日労友会の1波のストライキのとき、溶鉱炉の火を止めるなと指揮をとったのが田中熊吉さんです。「ここから先はこの俺を殺して行け」と身体を張って高炉を守ったという話しは作り話しで、隠れて成り行きを見守って、ストライキマンが引き上げた後に、溶鉱炉の火が消えないように陣頭指揮をとったのです。熊吉さんは、この功労で1920年10月18日起業祭に合わせて、勤勉実直、滅私奉公の象徴として宿老に任命されます。その後、戦時体制の産業報国会ができ、戦意高揚としてとして忠義の象徴として、「高炉の神様」と祭り上げられるようになります。

  田中熊吉さんは仕事中にハンマーで片目をつぶしますが、そのまま作業を続けます。隻眼であったことが 神様と崇められるようになった評論している書物もあります。片目を溶鉱炉に捧げた人身御供として、職工の象徴として「神様」と崇められていました。溶鉱炉トラブル原因を凡人の分からないことを指摘するので「高炉の名医」とも呼ばれていました。田中熊吉さんを活用は、勘だけ仕事をしていたのではありません、化学的知識の裏付けもきちんと持っていました。

 定年のない田中熊吉さんは、晩年は翁(おきな)と呼ばれ昭和47年(1972)98歳で亡くなくなります。いま田中熊吉さんの銅像は、八幡製鉄所戸畑構内の製銑サブセンターの前に置かれています。

 宿老田中熊吉さんのことは、佐木隆三さんが「宿老・田中熊吉伝」(2004年初版)を書いています。佐木さんの初期の小説では宿老を。戦後、「宿老はスト破りじゃないか」「会社の売名のサンドイッチマン」と言う人もいたことを書いています。

 隻眼で有名な人はたくさんいます。伊達政宗、山本勘助、柳生十兵衛、乃木希典は片目です。タレントのタモリも片目が見えません。

 

協調的組合の育成 

 ストライキ前後には八幡製鉄所に、労友会、労愛会、同志会、組伍長研究会と4つの団体がありました。組伍長研究会以外は、他の会社の労働者も加盟し横断的組合で、その多くは製鉄の人達です。穏健派の同志会は、組長や伍長が組合幹部です。同志会理事長の勝部長次郎は、国際労働会議に職工長に田中熊吉さんを選定したことに不満を持っていました。同志会は穏健派とは言え労働条件改善の要求はします。労友会解散したので、職工の会員が急速に増えていきます。

  製鉄所は、末端職制だけで「組・伍長研究会」を創り、より会社意向に協力的な組織を育成します。会員は製鉄所職工の組長、伍長のだけの企業組織です。交渉ではなく、懇談会形式で労務政策を補填する役割する社内組織です。御用組合と呼ぶにも値しない組織です。田中熊吉さんも組伍長研究会に加入しています。組伍長研究会は、その後、一般職工も加入勧誘して共同研究会として労働組合の形を整えます。

 製鐵所は、工場総代を選抜して製鉄懇談会を開催し、争議再未然防止対策として機能させます。同志会と共同研究会の2つの労働組合、競い合って会員拡大をします。

 古来、支配者は、いがみ合わせ、競わせて、分断して統治しています。組合幹部を懐柔し、出世を褒美として与え、ストライキをしない労働組合に介入していきます。

 同志会理事長の勝部長次郎さんは、数年後、突然辞任して製鉄所経営の鳥取県のクロム鉱山へ転勤する理由は不可解なものがあります。

 八幡製鉄所は戦後、再び1960年頃に「作業長・工長会」として組・伍長会と似たようなものが、労務施策を補完するインフォーマル組織としてつくり、協調的なストをしない労働組合幹部を育成します。

 

八幡の最初のメーデー 1922年

 ストライキ後労友会解散します。労愛会は自然消滅します。残ったのは同志会と組伍長研究会です。ストライキから2年後の1922年に八幡の第1回のメーデーは同志会主催で催されます。 メーデーは、八幡の構内通用門近くの「ハイカラ館」で夕方からの演説会として開催されます。この演説会に浅原健三ら元労友会の人達も参列して、弁士にヤジを飛ばすのです。そして終演した直後2階からビラを撒くのです。

  メーデ―のときには、ストを主導した労友会は、多数の解雇者をだし解散をしています。労友会の浅原健三と西田健太郎は、別々に分かれて北九州市、筑豊の労働組合を組織し指導していきます。戸畑地区で、青年労働者を教員宣伝し、同志会の内部改革を策動します。同志会の指導部を御用組合幹部と批判を強めていきます。

 

アナルコサンディカリズム

 当時の労働運動は、サンディカリズムが支配的で議会で世の中を変えようとするのではなく、労働組合が直接行動で経済を運営する思想です。これに無政府主義=アナキズムが結合してアナルコサンディカリズムと言われてます。

 普通選挙制度がなく、人権や民主主義が未成熟の時代ですから、議会政治を否定する誤ったサンディカリズムの左翼思想が弊害となっいます。メーデーの翌年1923年9月1日に関東大震災が起こり、朝鮮人大虐殺、大杉栄惨殺事件が起こったように、世界的に戦争でのテロ、暗殺、暴力、謀略が頻繁に起こっていた時代です。

 普通選挙法と治安維持法と抱き合わせで1925年に施行され、労働組合は戦争協力の道へ右旋回していくのです。

 

第2回メーデーの中止 遠足メーデー1923年

 製鐵所は増産で人員は増えていき、同志会は会員数を増えます。官業労働組合の全国大会を枝光のニコニコ座で1923.2.10開催します。ニコニコ座は第2代本事務所の近くあり、いまの枝光本町のスーパースピナに位置してました。近くには白川遊郭がありました。この大会の会計報告を巡り、同志会の戸畑地域の青年達から、不正経理を追及され、同志会執行部を辞任に追い込み臨時執行部を組閣を1923.4.7にします。ただちに本部役員は4月11日直ちに役員総会を開き、臨時執行部追放します。5月1日メーデーは計画していましたが、同志会戸畑支部の「急進派乗っ取り事件」で青年達がメーデー混乱を危惧してメーデーは急遽中止します。

 しかし、急進派のグループは、菅生の滝に遠足と称して旗など持たず集団で行進するのです。遠足メーデーです。遠足から同志会事務所に戻ったグループは、遠足に参加しなかった戸畑支部長を糾弾します、メーデー不参加の会員は支部長とともに脱退宣言をして会場を去るのです。残った急進派グループは、同志会本部から脱退して、単独組合の「北九州鉄工組合」と呼称を改め単独組合となります。

 この年1923.9.1に関東大震災が起こります。

続く➡

    

参考文献

八幡製鉄労働運動誌 昭和28年八幡製鉄所㈱発行(甲斐募編集)非売品

福岡県史ー通史編近代社会運動1 平成14年福岡県発行

高炉の神様・宿老田中熊吉伝 佐木隆三