ワイシャツで仕事できると言われて戸畑に転勤した

光和精鉱西が丘社宅ABCD棟1975撮影 社宅には風呂がなかったが共同浴場があった。社宅はピーク128戸あつたが現在はE棟20戸のみ残っている。 
光和精鉱西が丘社宅ABCD棟1975撮影 社宅には風呂がなかったが共同浴場があった。社宅はピーク128戸あつたが現在はE棟20戸のみ残っている。 

2015/7/16

秋田弁と岡山弁が混在する創業時期

 

 光和精鉱株式会社は昭和36年(1961年)2月10日創立です。その操業要員は同和鉱業の鉱山の人員削減で転籍された方で操業開始します。1960年(昭和35年)に同和鉱業は、鉱山の人員削減大合理化をし、再就職先として光和精鉱、国土総合開発、東京熱処理工場へ大量の退職者を移動させるのです。

 光和精鉱の転籍労働条件は、同和並保証し都市の物価高分の加算をするとの口約束を信じ、新天地での希望を抱いて戸畑へ移動するのです。「光和精鉱は新しい工場だから、硫酸工場はカッターシャツ着て仕事ができる。テレビチャンネルが4つもある」と口説かれた人もいました。

 社史によれば、創立2年後の昭和38年3月末人員は製鉄と同和出向者含み151人。そのうち転勤者は124人です。ほぼ全員が同和鉱業転籍者です。現地採用は僅かです。

 東北弁、秋田弁で会話する同和出身者は、定年退職、希望退職などで2001年に全員いなくなります。

 労働組合は、昭和38年12月結成されます。組合は会社の支援で創られます。組合規約案も会社が援助して作成します。同和鉱業からの転籍条件は、同和横並びの労働条件がみんなの要求です。社宅改善の要望も会社は社員増にともないこれに応えてくれます。ところが、硫酸価格は下落し、鉱山の保護のため、光和精鉱を鉱山存続のためのコストセンターのようにし、昭和50年1975年に同和並の一時金が崩れます。

 会社設立時期の高度成長時代は拡大再生産で、硫酸工場増産、ペレット増産で社員数は増えていきます。時短要員、減耗要員で1974年(昭和49年)ピーク312人に達します。このとき、社宅は116戸、独身寮28室ありました。それが、1978年(昭和53年)3月の人員整理で165名まで一気に減ります。

 昭和53年の希望退職で、二度と合理化実施しないですむように、新規採用は最少限度に留めるのですが、八幡製鉄所人員削減の雇用先として採用するのは腹立たしいことでした。

 硫酸市場は、亜硫酸ガス規制で製錬ガス、原油精製のイオウ原料に変わり、円安で非鉄国内鉱山を閉山に向かい、硫酸は余剰で価格は下落し、昭和60年再び人員削減によるコスト削減をせざる得なくなります。

(続く)

資料出所  光和精鉱20年史から
資料出所  光和精鉱20年史から