膨張する間接部門と役職者

昭和53年4月30%の人員削減後、気分一新と会社再建スローガンワッペンを公募した。8月から12月の3か月間作業服に着けて仕事した。八幡製鉄所は当時「バイタルヤハタ80」のスローガンワッペンつけていた。
昭和53年4月30%の人員削減後、気分一新と会社再建スローガンワッペンを公募した。8月から12月の3か月間作業服に着けて仕事した。八幡製鉄所は当時「バイタルヤハタ80」のスローガンワッペンつけていた。

2015.7.27

 3回人員削減の歴史

 

   光和精鉱株式会社の人員削減合理化は大きく3回ある。そのなかで一番大きかったのは昭和53年です。

 昭和53年の人員削減は254人→169人 △85人削減、全体の1/3の削減です。当時の工務課(建設、設計、機械電気)は太平工業へ外注化で52→21名が削減部署としては大きかった。保全は太平工業へ全面移管して、設計建設点検部門のみ残った。海外事業部所属19人を別会社とする計画は中止となった。各部門とも組織の統合により配置要員は最低必要限度まで減った。

 要員削減でしばらくは時間外増え、新規採用は減耗要員の最低限度にとどめていくも、製鉄からの出向受入れ、定年延長もあり社員は増えていきます。そして、昭和62年に再び2回目の人員削減をまた実施するのです。

 さらに、硫化鉱枯渇でイオウ焚きの硫酸生産によりペレットキルンは2基のうち1基を廃止して産廃処理事業の拡大をしていく過渡期の平成7年に3回目の人員削減をします。平成7年の人員削減は、出向、派遣、定年再雇用停止などで要員減らしたます。出向拒否した人には退職金優遇措置を講じた。出向先で定年を迎えた方もいました。

 昭和53年大合理化のとき再び人員削減しないようにすると誓ったのですが、経営陣が変わると、また人員削減を繰り返えすのです。 

 人員整理の歴史

 (1) 昭和53年1978年 254人→169人 △85人・・希望退職

 (2) 昭和62年1987年 170人→143人 △27人

                   定年延長凍結55歳以上勇退、希望退職、

 (3) 平成7年1995年 143→118人 △25人

  派遣3、出向10、定年7、嘱託解職2、退職3人の計25人要員削減。

  (退職3名のうち1名は製鉄出向へ戻し)

  

 昭和53年合理化で、事務部門は総務人事、業務、経理、本社の人員は32人→15人へと激減した。削減直後の戸畑の総務部門は、部長1、経理2名と人事庶務3名、本社2での計8名だった。それが2015年7月現在は、部長2+課長・グループリーダー3+係長2+スタツフ 7 計16名と9名増えています。環境安全部門は部長兼務2名が部長含めて3名。工務保全設計関係は、昭和62年11名が現在派遣含めて23名となっています。

 要員が増えても残業は減らない。管理職ポスト確保のために組織を細分化し、階層的で重層的な組織になっていく。フラット組織から放射状のピラミッド組織に復古している。 

 光和精鉱社員は2015.7.20現在60歳未満55歳以上は10人いる。うち課長以上は9人、係長は1人。一般職はいない。全員現役職のまま再雇用留任するとなれば、役職比率は減小しない。役職者が減少させないと間接部門はさらに肥大化することになる。

写真・・1978.4.1社宅娯楽室。 昭和53人員削減のときの全組合員集会は3回開催した。会社幹部の経営責任と業者から接待受けていること等の批判が噴出した。希望退職は殺到し2日目で目標超過して募集を止めた。
写真・・1978.4.1社宅娯楽室。 昭和53人員削減のときの全組合員集会は3回開催した。会社幹部の経営責任と業者から接待受けていること等の批判が噴出した。希望退職は殺到し2日目で目標超過して募集を止めた。