2016/4/27
メーデーの歴史
メーデーの起源 1886年
メーデーは、1886年5月1日に合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟AFL)が、シカゴを中心に8時間労働制要求の統一ストライキを行ったのが起源です。8時間は仕事のために、8時間は休息のために、残りの8時間は自分の好きなことのために」スローガンを掲げた。
日本のメーデーは1920年5月2日日曜日第1回のメーデーが友愛会主催で上野公園開催された。
官営八幡製鉄所では1920年2月に2次の大規模のストライキにより、12時間二交替から拘束9時間実労8時間の三交替勤務になり、常昼勤務も拘束11時間と12時間が、拘束10時間、実労9時間に変わります。メーデースローガンの8時間労働規制は戦後まで待たねばなりません。
米騒動、労働組合運動、普通選挙法運動が起こるこの時期を大正デモクラシーと言い、文学演劇歌謡などの文化も広く発展します。ところが、1925年、普通選挙法と抱き合わせで成立した治安維持法により戦争への道へ進んでいきます。
北九州八幡の最初のメーデー 1922年
八幡製鉄労働運動誌(によれば・・福岡県内の最初のメーデーは、1922年5月1日月曜日の夜に八幡市尾倉ハイカラ館(現八幡東区西本町豊山神社付近の九州電力八幡営業所)で「労働祭大演説会」として開催された。2,000人集まった。1920年ストライキの2年後の開催です。
1920年ストライキ主導した日本労友会幹部(浅原健三、西田健太郎等)の逮捕や解雇で消滅します。2次ストライキに参加した友愛会は、組合員が激減します。
製鉄所職工同志会(勝部長次郎代表)の発足は、労友会がストライキに決起した2日後のスト最中に正式発足します。スト反対勢力として製鉄所当局からの支援により結成されます。主だった幹部は組・伍長ですが、職工の要求を取り上げていきます。
そこで、製鉄所は、組伍長研究会をつくります。後に職工加入を認め、会社施策に協力する「労働組合・共同研究会」に改組します。これに宿老・田中熊吉さんも入会しています。
製鉄所は製鉄所懇談会を作り、委員選出の職場選挙で同志会と共同研究会は競いあいます。製鉄所は横断的労働組合を嫌悪し、職工だけの企業内組合に封じ込めようとする政策なのです。
1928年最初の普通選挙法により衆議院選挙が実施され、スト指導した元労友会の浅原健三が当選します。この頃メーデーはデモ行進をして集会をするようになります。製鉄の労務担当責任者である田尻生五さん(後に田尻会なる選挙組織もできる)は、臨時工の職夫人を排除して組合幹部を懐柔し、育成していきます。
1931年9月柳条湖事件に始まり、満州事変と日本は中国への侵略戦争に走ります。治安維持法により国策に反対する人を逮捕し労働運動は冬の時代を迎えます。1936年2.26事件で戒厳令を契機に集会禁止となり、敗戦翌年の1946年までメーデー開催は禁止されます。
1938年国家総動員法が施行され、労働組合は解散し1940年「大日本産業報国会」を創り、一億玉砕の戦時体制になります。
メーデーと勤労感謝の日
メーデー発祥のアメリカでは、5/1のメーデーはありません。9月第一月曜日をレイバーデイとして国民の祝日としています。日本は5/1は祝日ではなく、11/23勤労感謝の日が祝日となっています。ゴールデンウィークで連休拡大するため、勤労感謝の日をメーデーへ移動させる案が浮上したこともあるが頓挫している。日本の祝日は、天皇にまつわるものが多い。
光和精鉱はいくら祝日が増えても年間休日数増えないと労働日数は変わらない。安倍晋三総理は、残業代0とするホワイトカラーエグゼブションの高度プロフェッショナル労働制度法案は参議院選挙戦術として今国会で成立を断念した。非正規の同一労働同一賃金で選挙支持を得ようとしています。
メーデーの原点は、労働時間の短縮です。自由な時間は、人間の多様な能力を発達せるものです。
2016メーデーの案内
メーデーの歴史は組合の分裂の歴史でもあります。メーデーが、主義主張の違いはあって統一開催されないのは残念です。分裂から統一メーデーになることを願ってやみません。北九州市内のメーデーは次のとおり開催されます。メーデーは一人でも参加できます。
2016メーデ開催日と場所
①2016/4/29 10:00~ 門司港レトロ広場
② 2016/5/1 10:00~ 小倉北区中央図書館横勝山公園
1930年頃のポスター 法政大学大原社会問題研究所HPから
2016メーデーポスター