2016/8/14 21:15
八幡製鉄は15日分の一時金支給する。
越中富山から始まった米騒動は、大正デモクラシーを象徴する事件です。98年前の大正7年(1918)7月22日富山県魚津町の漁民主婦らの井戸端から始まり、翌23日輸送船・伊吹丸が魚津町に寄港した時、漁師の主婦ら数十人が、米の積み出しを行っていた海岸の米倉庫前に押しかけ、「米の値段が高くなるのは、県外に米を持っていくから魚津に米が無くなる」と、米の積み出しを中止させます。またたくま富山湾岸地域の女性たちは集団で米問屋に押しかけ騒動がすぐに広がります。
富山地方の漁民は七月と八月を火にかけた鍋に入れるものがなく割れてしまうので「鍋割月」と呼んでいた。漁民の生活は非常に貧しかった。定置網漁であり海岸の豊漁地帯は少数の網元が占有し漁民たちはその網元で働くか、出稼ぎに行くしかなかった。農民も小作が多く貧しかった。米の高騰が鍋割月に起こり米騒動となるのです。
まもなく富山の米騒動は横浜、神戸、京都で大規模の米屋安価放出を求め騒動が波及します。労働者は米購入のため使用者へ賃上げ要求交渉を集団的におこない、米屋を襲撃します。政府は騒動の報道を規制するが、新聞社は報道の自由を主張して、各地の米騒動を報道するのです。そのニュースを知り、米騒動は日本全土に拡大するのです。米の高騰はロシア革命が起きて日本がシベリアへ派兵するので食料需要を当て込んで商人が売り惜しみした結果起こったのです。
漁師の主婦の集団陳情から始まった富山の米騒動は、労働者の集団的賃上げ要求とともに米の高騰に怒った悪徳米問屋を襲い略奪する事件が全国に広がるのです。騒動には非差別部落の人達が多かった。
九州福岡県では1918/8/15門司港から始まり、小倉、戸畑、筑豊、田川炭鉱地帯へ米騒動は波及していきます。
官営八幡製鉄所は8/10に先手を打って8/16から臨時手当を支給すると発表した。ところが、発表の翌日8/11に製鉄購買会は米の値上げをします。米の値上げにより臨時手当は吹っ飛び労働者は憤慨します。臨時慰労金手当を求めてサボタジュが始まる。職工の賃金の半分しかない臨時職夫と日雇い朝鮮人等は米を買う金がないので働けないと言って出勤しない。 8/11 銑鉄部職工200人余名が尾倉神願寺に集まり賃上げを協議し、8/12夜には 鋳物工場、線材工場、整備工場等の職工1000人集合し工場長へ賃上げを要請する。8/13には経理部、輸送の職工に波及し、70余台の機関車が08:00〜10:00と13:00〜15:00運行休止する。
製鉄所は、8/13に、賃金増に加えて、月給の半分15日分の「臨時慰労金」(臨時一時金)を支給することを発表します。八幡地区では職工騒動を警戒し、800人の兵隊で警戒して騒動を防ぎます。半月分の臨時慰労金が出ることで、米屋を襲うことは起きなかったのではないでしょうか。。
戸畑では沖仲士のごんぞう等が築地の中野米店が襲撃され、明治町の桧垣米屋は焼き討ちにあい、戸畑倉庫会社から30俵の米が担ぎ出し安売りを強要されます。
筑豊炭鉱では、荒くれ坑夫が多いこともあり、日頃の不満が鬱積していたので一揆のような暴動が起きて炭鉱の配給所、米屋が襲撃されます。これを軍隊が鎮圧する騒擾が大炭坑で起こっています。
1918年の米騒動は、民主化運動の起爆材となった事件です。「閥族打破」の護憲運動が、米騒動以降、普通選挙運動、労働運動、農民運動は組織化されていきます。世界的には軍備拡張で日本の工業生産は伸張し、製鉄所で働く人は増え農村から都市へ人が集まってきます。
米騒動を知見した労働者は、処遇改善を求め職場放棄、サボタージュが分散的に起こします。製鉄の職工は労働組合に加入します。1年半後、労友会は1920年2月5日には、製鉄所の大罷業(ストライキ)が起こります。このストライキの結果、賃金増額と共に労働時間は12時間二交代から8時間三交代に変わります。
<資料文献> 福岡県史 通史編近代社会運動(1)福岡県平成14/3/31。 聞き書き社会史ー北九州の米騒動 林えいだい2001/10/10刊 。 日本残酷物語5 平凡社ライブラリー12 1955/8/15刊。 日本の歴史(27) 大正デモクラシー 小学館1976/7/10刊行。八幡製鉄労働運動誌 八幡製鉄所発行甲斐募 昭和28/4/25刊、非売品。 岩波講座日本の歴史19巻現在米騒動・社会運動の発展 田沼肇1972/2/2刊行。