八幡製鉄所宿老・田中熊吉氏の胸像

宿老。田中熊吉さんの像//戸畑構内製銑サブセンター前 2017.7
宿老。田中熊吉さんの像//戸畑構内製銑サブセンター前 2017.7

2022/7/4

 製鉄所の宿老は滅私奉公の模範として崇められる。

 

 八幡製鉄所戸畑構内製銑サブセンター玄関横に、初代宿老。田中熊吉氏の胸像があります。八幡構内から移設したと聞きます。

 『復習するは我にあり』で直木賞をとった佐木隆三氏は、八幡製鉄社員時代に社内報記者として、田中熊吉氏を取材し社内報「くろがね」に記事を書きます。田中熊吉氏は、ドイツに留学して高炉技術を学びます。31歳のときハンマーを左目に当たっても夢中で作業をし続け、水晶体が飛び出し失明します。大正7年の米騒動は八幡では800人の兵隊で警戒して騒動を防ぎ、製鉄所は半月分の臨時慰労金が出だして暴動を防止します。八幡では米屋を襲うことは起きなかったが、その後、労働組合の結成と、普通選挙実施運動の盛り上がりのなか、大正9年2月にストライキが起こります。そのとき、田中熊吉氏は高炉の火が冷えて固まらないようにします。「高炉止めるなら俺を殺して行け」と体を張って高炉を護ったのは、創り話しのであると書いている論文があります。2波のストが終息し熊吉氏は論功褒賞で職工の模範として、宿老に任命されます。定年のない終身雇用で昭和47年1972年98歳で亡くなります。

 

 佐木隆三氏は2004年『宿老・田中熊吉伝 鉄に挑んだ男の生涯』を書き、2007年に『高炉の神様 宿老・田中熊吉伝』改題しています。

 昭和18年発行、若杉熊太郎著の『田中熊吉傳』があります。戦時中に書かれたもので、まだ生きているので「神様」とは呼ばず「溶鉱炉の主」と表題です。田中熊吉氏は、人の悪口はいわず、ただ仕事に熱中した?職工の模範として美談ばかりで戦意高揚として産業報国会の戦意高揚の戦争体制を翼賛する本です。 佐木隆三氏は、熊吉氏が死亡しているので「高炉の神様」に祀り上げたのか経緯は不明です。

 佐木隆三氏は事件裁判ものの著作が多いなか、八幡製鉄所に関連する小説もたくさん書いています。『冷えた鋼塊』(1981年)は傑作です。原子力製鉄開発のことが書かれています。いま、脱炭素化で水素還元製鉄の研究が国の巨額の予算をもらい始まっています。高炉でコークス使用せず、水素還元で鉄をつくりCO2削減するとふれまわっていますが、水素製造には大量の熱源が必要でCO2発生トータルは同じです。ですから、核融合原子力を熱源にしてCO2を発生させない小型原子炉を利用する構想があります。原子力は、完全に制御できる技術は確立しておらず、再稼働の賛否が分かれています。

 

 水素還元製鉄になると、光和精鉱での高炉ダストの原料がなくなります。するとダスト流動床炉での高炉ペレット原料なくなり、産業炉焼却残渣の原料リサイクル先がなくなります。そのときは産廃残渣の埋め立て処分ゼロの看板は降ろさざるを得なくになるでしょう?

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